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葬儀が執り行われている――
これは久美子のお葬式なのか、それとも私は何かいま、悪い夢でも見ているのだろうか…
祭壇の花で飾られた娘の写真を、疲れきって麻痺した頭でボーッと見つめながら、私は思った。
久美が笑ってどこからか現れるような気がした。
「ママ冗談だってば!」 そう言って彼女が、今にも私の肩をたたいてくれそうな気がした。
でも、娘は火葬場に運ばれ、焼かれ、白い骨になって私の前に出てきた。
手袋をはめながら火葬場の係りの男性が言った。「真っ白な、どこにも染みのない、きれいなお骨です」
24歳の若い娘の体は、どこにも異常はない。
ただ、心が病んでいた――
◇娘の突然の自殺は、私を鬱状態にした。
外に出るのが怖かった。
スーパーに買い物に行くのが怖かった。
マーケットに買い物に行っても、彼女の好きなものを見ると、胸が張り裂けるほどの思いが湧き上がってくる。
ゼリー、明太子、アイスクリーム、焼き鳥、唐揚げ… そんなものが私をひどく苦しめる。
娘と同じ年頃の娘さんを目にすると、胸が張り裂けるようになった。
娘の大好きな食べ物を見るだけで涙が止まらなくなった。
ものを送るために取っておいたダンボール箱がを見ても、打ちのめされる思いがした。
久美にお茶や洗剤などを送るときに使えるよう、捨てずに部屋に置いておいたいくつかの段ボール箱。
この箱はもう必要ないのだと思うと、とめどもなく涙があふれた。
何を見ても、娘を思い出し涙がにじんだ。
「後追い自殺」という言葉が頭をよぎった。
そうせずにはいられなかった親族の気持ちが、私には痛いほどよく理解できた。
久美が死んでしまった。
私はこの現実をなかなか受け入れることができず、苦しさと悲しみのあまり、夜中に本当に発狂しそうになった。
私は家の中に引きこもった。
家でも何も手に付かず、心にわくのは自滅的な後悔の念ばかりだ。
あのときああすればよかった、こうすれば彼女は命を絶たなかったかもしれないと、自分自身をどこまでも非難して責め続けた。
もともとやせている私の体重が、さらに5キロ減った。
何をしても、どうやっても、「どうしようもないこと」が世の中にはある。
受け入れたくない現実であっても、「受け入れなくてはならないこと」が世の中にはある。
逆立ちしても、泣きわめいても、それでも現実として受け入れなくてはならないことが、この世にはあるのだ。
◇娘の死から1カ月間は、私の人生で一番のつらい時期だった。
娘と過ごした数々の出来事が頭をよぎった。
歩きはじめた幼児のころの、可愛らしかった久美――
私が風邪で寝込んでいたとき、幼稚園児の久美は、自分のおこづかいで私の好きなあんパンを買ってきてくれた。
「ママこれ食べて早く元気になって」
新聞紙で不器用にラッピングまでしてあった。
娘の優しさがうれしくて、私はそのあんパンがもったいなくて食べることができなかった。
そして今となっては、登校拒否をして家の中で暴れていた久美もなつかしかった。
「そういえば…」
私は、彼女の本の読者のことを思い出した。
「あの読者たちは、久美の自殺を知ったらいったいどう思うのだろう?」と、ぼんやり考えた。
久美は、登校拒否をしていた中学2年のときに、『私、戦う中学生』という本を出版している。
その本はひょんなことから世に出ることになった。
ある日私は、銀座で開かれていた友人の個展で、ひさしぶりにある知人に会った――
久美子は帰国子女だった。
私たち元夫婦は、離婚する以前、4年ほどアメリカで暮らしたことがあった。
娘が日本に帰国したときには、彼女は小学校5年生になっていた。
すっかりアメリカン・スピリットを身に着け、久美子は日本に帰ってきた。
しばらくして彼女の登校拒否が始まる。
私は毎日そのことで悩み続けていた。
娘は日本の学校のおかしさをよく私に愚痴っていた。
日本の学校しか知らない同じ年ごろの子どもにはない、面白い発想をしていた。
そんなことを、ひさしぶりに会った知人の彼に、立ち話で手短に話した。
そのころの私の頭の中は、久美子の悩みでいっぱいだった。
ついつい、ひさしぶりに出会った知り合いにまで、子どものことをぼやいてしまったわけだ。
久美が日々私に投げかける、日本のおかしなところや問題点などを…
すると話は、ここから思わぬ方向に進展していったのだ。
「あなたのお嬢さんは面白い! 彼女の体験談を本にすればいいよ」
「はぁ~本ですかぁ?」
彼の突飛な提案にあ然とした。
「まさかぁ、あの久美子が本を出すなんて考えられない」 私はそう思った。
彼は強調しながら続けた。「そうだよ、子どもの立場からの発言が大切なんだ。今は大人たちの視点ではなく、子どもの立場から世の中を見た本が必要なんだ。そういう本なんて、ないじゃないですか。ぜひお嬢さんに本を書いてもらいたいなぁ。あぁ、ちょうどいい。よく知っている出版社の人が今この会場に来ているから、ぜひご紹介しますよ」――
そこから娘の出版に向けて、話が進んでいったのだ。
でも私は、もう何年も登校拒否を続けている久美子が、そんな提案を受けないだろうと思っていた。
ところが、映画に誘っても、買い物に誘っても、何をしても興味を示さなかった久美子が、私にハッキリと積極的な意思表示をしたのだ。
「クミ、本出したい! 絶対クミ、本書く!」
内心、大変なことになってしまったと私は不安になった。
中学2年生の久美子が、ひとりで一冊の本を書けるはずがない。それだけの日本語の文章力が娘にあるはずもないことは、母親の私が十分に承知している。
私自身が相当なサポートしなくてはならないだろうことは、目に見えて分かっていた。
でも、久美子が初めて本気で本を書きたいと言った前向きな気持ちを、私は大切にしたかった。
そして私は、出版に関して、久美子を全面的に支えるよう力を尽くした。
そうして出版された本は、週刊誌などにも取り上げられ、“中学2年生が書いた本”として当時ずいぶん評判になった。
初版はすぐに売り切れ、まもなく再販本も出版された。
段ボール箱がいっぱいになるほどの久美へのファンレターが、出版社あてに届いた。
同じ中学からのものがほとんどだった。
「私の思いを代弁してくれてありがとう」という内容が多かった。
中には「この本は私のバイブルです」という手紙もいくつもあった――
あの手紙を書いてくれた当時の子どもたちが、今この現実を知ったらどう感じるだろうか?
自殺は、あの読者たちをも裏切ってしまったことになるのではないのか?
私は、あのとき手紙をくれた子どもたちに謝りたい気持ちでいっぱいになった。
久美子の母親として、久美の本の出版にかかわった者として、本の読者に謝罪したかった。
そんなことを考えて、私の心はますます追い詰められていった。
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