<第1章 娘の自死を乗り越えて>

[1-1] 東大病院集中治療室

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先ほどから、リビングの電話が鳴っている――

「だれぇ~、こんな時間にぃ…」 もうろうとした、まだ目覚めぬ意識の中で思った。
手を伸ばし、枕もとにある時計を見た。
「えっ、5時?」 まだ夜明け前だ。

そう言えば…、夜中にも電話のベルが聞こえていた気がする…
「ふぅー、父か母に何かあったのかしら?」
一瞬そう思い、電話を無視して布団をかぶって寝てしまおうかと思う。でも依然電話は鳴りやまない。
私は仕方なく、ガウンをはおり電話に出た。
「ふぁ~ぃ」

「俺だけど…」 何年ぶりかの元夫の声は、電話の向こうでかなり動揺していた。
少しの間沈黙があり、彼は信じられないことを私に告げた。

「すぐに東大の集中治療室に来てくれ! 久美が危篤なんだ。久美が自殺した…」


「えっ? 冗談でしょう…」 心臓の鼓動が急に激しくなった。くらりとめまいがした。
「あの子が…、自殺?」 何かの間違いだ…

洋服を着替えるのがもどかしい。体がなぜか小刻みに震える。

「何かの間違いだ。きっと、何かの間違いだ、間違いだ、間違いだ。
自殺だなんて、冗談じゃない。久美がそんなことするわけない。あの子はそんなに弱い子じゃない!」


駆け付けた東大病院には、何年かぶりに見る元夫と、久美子の彼氏がうなだれて待合室の椅子に座っていた。
はじめに私のところに電話したのだが出なかったので、元夫のところに連絡したのだと、娘の彼氏が申し訳なさそうに私の耳元で言った。

案内された集中治療室の中に、モニターにつながれ酸素マスクをしている娘の姿を見たとき、まだこの現実が信じられないでいた。
そのとき彼女の心臓はまだ動いていた。

別室で医師から娘の容体を説明された。
見せられた彼女の頭部のレントゲン写真は、真っ黒だった。
つまりすべての脳細胞がダメになっていると、若い医師は告げた。
そして彼は言った。
「多分、助からないと思います」

練炭自殺を彼女は図ったという。この場合苦しむことはないと、医師は言った。

隣で説明を聞いていた元夫が、突然号泣しはじめた。
私は驚いた。彼が泣くのを私は初めて見たからだ。
しかもこんなに大声で嗚咽をこらえて泣く姿は、別人を見ているようだった。


私はだんだん腹が立ってきた。
まるで、私の大事な一人娘久美子が100%もう助からないと、皆が決めてかかっている!
「あの子は死なない! 死ぬはずがない! きっと奇跡が起きて久美は助かる!」 私は本気でその時そう信じていた。

ベッドの上の久美は、いつものように何事もなく、静かに安らかに寝ているようだった。
ただ、ずいぶんやつれ疲れているように見えた。
目の下には、うっすらと隈がある。

「久美、元気になったらママと二人でどこかに旅行に行こうね。元気になるんだよ!」
私はベットの横の椅子に腰かけ、色々と話しかけた。
いつものようにすぐに彼女が目を覚ましそうな気がした。

緑色の心電図は静かにゆっくりとピーピーと電子音を響かせていた。
彼女の返事は全くない。

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<第1章 娘の自死を乗り越えて>

[1-2] 控え室での苦悩

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私と元夫に、病院側から控え室として個室を与えられた。
それは、もう娘が助からないという暗黙の病院からの配慮のような気がした。
娘の彼氏はアパートに帰って行った。


元夫の彼と、部屋の中で二人きりで過ごすなんて、いったい何年ぶりだろう…
彼と離婚してからもう10年以上が過ぎていた。

私は、彼と二人きりでこうして一つの部屋にいるのが苦痛だった。耐えられなかった。
できればすぐにでも、ここから立ち去り、自分の家に帰りたい。
でも今はそれどころではないのだ。娘が死ぬか生きるかの瀬戸際だ。
この部屋から逃げ出すわけにはいかない…


部屋の中には、非常に重い空気がどんよりと流れていた。
彼は私に背中を向けたまま、独り言のように言った。
「なぜだ? なぜなんだ? なぜ離婚したのか。俺はいまだに理由が解らない。何も悪いことはしていない。俺が何をしたと言うんだ。家族を養うために、必死で毎日働いてきたんだ。なぜ離婚だったんだ!」

私は黙っていた。
「この人は、まだ全く何も分かっていない…」
私が15年間の結婚生活の中で、ひたすら自分を押し殺し、我慢して耐え続け、彼の一方的な命令にただ服従し、どのような思いで毎日を生きてきたのか、この人はいまだに何一つ分っていない…
私にも“自分の意志”があるのだということを、全く理解していない。
そんなことをこの場で彼に話しても、彼には分らないだろう。

「誰にお前は食べさせてもらっていた!」 そんな言葉が帰ってきて、彼は激しく怒り出すだけだということは、目に見えている。
今の局面でそんな状況になるのは、決して耐えられない。


私はいつも彼を恐れていた…
怒鳴られるのが怖くて、小さくなって暮らしていた。

だけどこのときの彼の背中は、以前よりとても小さく見えた。
自信に満ちあふれて高圧的なかつての彼とは、何だか別人のような気がする。
すべてに疲れ果ててしまった中年男性の姿が、そこにあった。


息苦しい静まり返った部屋の中で、彼と私は無言のまま、ただ時間だけが過ぎていく。

不意に彼は、宙を見つめながら独り言のように、ポツリと言った。
「あの久美の、心の奥にある強烈な寂しさは、いったい何だったのだろうか? どこからあの寂しさは来るんだ…。その理由がずっと今も分からない…」
彼の横顔が、まるで生気の抜けた幽霊のように見えた。

「確かにそうだった。私にもその理由は分からない」 どうしてだろうと思った。


久美は、愛をもっともっとと言って、欲しがっていた気がする。
いくら愛しても、彼女には足りないようだった。

父親からも母親からも愛されていることは知っていたはずなのに、それでももっともっと愛を求め続けていた気がする。
祖父からも祖母からも愛情を受けていた。
私自身の子ども時代の何十倍も、いや何百倍も、うらやましいほど彼女は周りからいっぱい愛を受けていた。

それなのに…
そのとき私は思った。

「私のせいだ…」


そう、それは私からの“遺伝”のせいかもしれないと感じた。それ以外に理由がつかめない。
多分、こういうことなのだと思う。それは、科学的な根拠があって思うのではなく、ただ私の直感だ。

母親の私自身の強烈な“寂しさ”が、子どもに遺伝して伝わったのだ…

あまりにも強烈な感情体験が長く続くと、その体験はその人の遺伝子に“刻印”されてしまうのではないかと、私はそのとき考えた。

私は小さいころから、ものごころが付いたころから、ずっと“ひとり”だった気がする。
いつも寂しかった。
もちろん家族はいたが、いつも家の中で一人でいた。

父からは、「お前は生まれてくるはずじゃなかったんだ。俺がおろせと言うのに、母親が勝手にお前を産んでしまった」などということをよく言われた。

私がハイハイしはじめたころは、両親は会社を立ち上げるので忙しかったという。
私は両親に心から望まれて生まれてきた子どもではない。まるで“事故のように出来てしまった子”だったらしい。

「アンタをね、ハイハイしだしたころはね、毎日家にあるミシンの脚に紐でしばり付けて、私は仕事に行ったもんだよ」 母はよく、私に悪びれる様子もなく自慢げに語った。

本来その年齢なら、母親の背中におんぶされ、母親の愛を受け、何の心配もなく母親の胸の中で安らかに眠りにつく歳なのに、家のミシンの脚に紐で結ばれ、ひたすら親の帰りを待ちわびていた赤ん坊のころの自分の姿――
そんな自分の小さな姿を想像しただけで、諦めのような寂しさで胸がざわついた。

子ども時代も、成人してからも、親の愛を私は感じられなかった。


結婚してからは、もっと寂しかった。

心を通い合わせることができない人と二人でいるのは、一人でいるよりもっと寂しかった。
寂しくて胸が張り裂けるほど、毎日が寂しかった。

寂しさは常に私に付きまとい、それがついには、遺伝子を通して娘に伝わってしまったのではないか…
こうやって先祖のトラウマが、子孫へと伝わっていくのかもしれないと、私はそのとき思った。


もしかしたら、私自身の中にある怒りや不安も、自分の体験によって蓄積されたものだけではなく、両親やさらに前の代からのトラウマを受け継いできたのかもしれない…

あれこれ考えていたら、よく分からなくなった。

→次の記事「[1-3]ブルーのパジャマ」へ続く

<第1章 娘の自死を乗り越えて>

[1-3] ブルーのパジャマ

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私たちのいる控え室のドアを、誰かがノックした。
看護婦さんだ。

「お嬢さんが着るパジャマを、1着すぐに用意してください」 彼女は申し訳なさそうに、私たちの顔を見て言った。

「パジャマ?」
私は瞬間、その意味が理解できなかった。

言いにくそうに、看護婦さんは言った。「仮にですけど、もし、仮にお嬢さんがもしここでお亡くなりになられた場合ですが…、そのときのために今から新しいパジャマをご用意ください。着替えさせてお送りいたしますので…」と言った。

その言葉はまるで死刑宣告のように響いた。
「死に装束」を今から整えてくださいと、伝えてきたのだ。


看護婦さんが部屋を出て行き、私はどうすべきか迷った。
パジャマを用意するということは、娘の死をハッキリ認めたことになる。そんなことはできない。そんなことは絶対いやだ。
だって、娘はまだ息をして生きているのだから。

長い沈黙が続いた後で、元夫がポッリと言った。
「パジャマを買いにこう」――


私は、不安と恐れとあきらめにも近い感情を抱きながら、病院の地下にある売店へと、薄暗い階段を一段一段降りていった。

元夫と二人で、娘の旅立ちのパジャマを選ぶために――

「これはどうだ…」
低い声で彼は、花柄の女の子らしいピンクのパジャマを指さして言った。

「違う…、久美はそんな女の子らしいものは着ない。黒とか紺色とか…」
娘は小さいころから、女の子の遊びにはなぜか興味を示さなかった。時計を分解したり、プラモデルを組み立てたり、機械いじりが好きだった。

着る服も、スカートは決して着なかった。
私が好きでよく着ていたピンク色の洋服を、気持ちが悪いとなじった。


こうして元夫婦で子どものものを買い求めるのは、実は初めての体験だった。
今まで、こんなふうに二人で買い物をした記憶がない…

私はかつて、彼と二人であれこれ迷いながら買い物をする日を、夢見ていたことがある。
でも、その願いがこんな形で叶うなんて、あまりにも、あまりにも残酷すぎる。


売店の棚の奥にあったブルーのパジャマが、私たちの目に止まった。
「これ、久美子が気に入るわ」
「うん…、それにしょう」 彼が言った。

私たち元夫婦がはじめて二人で久美のために選んだ衣服。
最初で最後の、子どもへの共同作業。
両親として二人で選んだ、娘のブルーのパジャマ……

→次の記事「[1-4]冷たくなる久美子の手」へ続く

<第1章 娘の自死を乗り越えて>

[1-4] 冷たくなる久美子の手

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何時間も、永遠とも思える時間を、控え室で無言のまま私たちは過ごしていた。

突然、看護婦さんがあわててドアを開けて入ってきた。
「すぐに集中治療室に来てください」 久美が危ないと言う…

控え室から久美のところまで移動する数百メートルの距離を歩くとき、私の両脚はガタガタと震えが止まらなかった。
歩けないのだ――
自分の足なのに、足元がもたつきよろけて、まともに足を運ぶことができない。
久美のもとへ行くのが怖くて怖くて、歩けない。
看護婦さんに支えられながら、やっと久美のベッドのところまでたどり着いた。


久美は見た目には、どこかに異常があるなんて信じられない姿で横たわっていた。
ただ心電図の電子音が不規則になり、止まったかと思うと、また思い出したように鳴りだす。

私は恐る恐る看護婦さんに聞いた。
「あのぅ~、娘の手を、握ってもいいですか?」
「もちろんいいですよ。そうしてあげてください」
握った彼女の手は、普通の体温よりかなり低かった。
私は娘の手を握りしめ、目を閉じた顔をじっと見つめていた。


彼女は24歳…
女性が一番美しく輝く年代。
肌は若々しく、白い陶器のように久美は美しかった。

その娘の手は、私の手の中で、どんどん冷たくなっていった。

どんどんどんどん、容赦なく娘の手の温もりが、私の手の中から失われていく…
久美の手が冷たくなっていく…
久美の手が冷たくなっていく…

私は動揺してパニックになりはじめた。
「このままじゃ、久美が死んじゃう…」
容赦なく体温が低下していく娘の手を握り続け、自分がおかしくなりそうな気がした。

「久美、死んじゃだめ―っ!」
私は周りにいる医師や看護婦さんたちのことなど忘れ、久美に向かって大声を張り上げた。
「久美、目を開けて、早く目を開けて!!」

私の中の娘の手は、ますます体温が低下していった。
「お願い、お願い、久美…」
泣きながら久美に哀願した。
「久美、ママの一生のお願いだから。お願いだから逝かないで!」

私の頭の中のすべての血の気が引いて、真っ白になっていく。
「久美が死んじゃう、久美が死んじゃう、久美が死んじゃう…」
久美子の手は悲しいほど冷たかった。
そして、娘につながれていたモニターの心電図の音は、ピタリと止まった。

真夜中の病室がシーンと静まり返った。

もう二度と、久美につながれた電子音は鳴り響くことはなかった。

生まれて初めて身近に体験した人の死が、娘だった…


一人の人間をこの体に宿し、お腹の中に胎動を感じ、産み落とし、育て、見守り、成人させ、彼女が一人暮らしをはじめてからもう4年――
娘は、私に手を握られながら、あの世へと帰っていった。

一人の人間の誕生の瞬間から、死の瞬間まで、私はまるごと“自分自身の一部”として、その痛みを体験した。

我が子を産み落としたときの、あの体中がバラバラに切り裂かれるのではないかと思うほどの出産の激痛。
そして今、私の手の中から子どもの命の温もりが消え、精神が粉々に砕かれるような、極限的に打ちのめされた心の激痛。

出産の痛みより、心の痛みのほうが、言葉に表すことができないほど痛い。

こんな悲しみが世の中にあることを、私は知らなかった。
今までも数えきれない悲しみを、私は独りで乗り越えてきている。
でも我が子の死は、想像を絶する究極の悲しみの感情体験だった。


私は深夜の寝静まった病院の中で、狂ったように叫び続けていた。
もしかしたらあのときの精神状態は、本当に半分狂っていたのかもしれない。


私は、人は肉体が死んでも、“魂”までは決して死ぬことはないのだと知っている。

それでも、人の死を通じて私たちが感じる悲しみには、これほどまですさまじいものがあるのだということを、このとき徹底的に体験させられた。

また私は常に自分の中に、さまざまな人生の体験を超然と見つめる、もう一人の「本当のわたし」が存在していることを、かすかに感じていた。
しかし最愛の娘の死に直面したこのとき、そんな感覚もすべて吹っ飛んでいた。


まるごとすべてが悲しみだった――

認めたくなかった。絶対どんなことをしても、娘が死んだなんて認めたくなかった。
何でもいいから生きていてほしいと願った。
半身不随でもいい、息を吹き返して生きてほしかった。

私はぼう然として立ちつくし、変り果てた娘の亡骸をぼんやり見ていた。


医師が死亡時刻を静かに告げた――
2005年12月31日の午前2時だった。
看護婦さんや医師や集中治療室のスタッフ全員が出てきて、娘の遺体に向かって静かに合掌した。

どこかで見たことがある風景だと、呆然とした意識の中でぼんやり思った。
これはテレビドラマのワンシーンだ…、緑色の心電図が止まり、医師が腕時計を見ながら死亡時刻を遺族に告げる。
頭ではこれが現実だと分かっていても、まだ現実であることが信じられなかった。


そして、そのとき―― 心臓が止まっているはず娘の亡骸の左目から、一筋の涙がこぼれて流れた…

私はショックで立っていることができなくなり、その場に崩れるように倒れ込んでしまった。
遠くで誰かが叫んでいる声が聞こえた。

「しっかりしてください、お母さん! しっかりしてください!」

若い看護婦さんの声だと、おぼろげに思った……

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<第1章 娘の自死を乗り越えて>

[1-5] 帰宅のタクシーで

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私は病院を出て、家に帰るつもりで、夜の道をふらふら歩いていた。

どちらが自宅方面なのかも分からない…
ほとんど夢遊病者のように、もうずいぶん歩いていた。

まだ始発電車は走っていない。
空車のタクシーが何台も横を通り過ぎる。

「久美が死んだ…」
「久美が死んだ…」
私は、うわごとのようにぶつぶつとつぶやきながら、真冬の暗い夜道を歩いていた。

目の焦点も定まらず、ふわふわと宙に浮いているような、現実感の消えた感覚だった。

「そぅかぁ…、私、家に帰るんだ」 やっと我に返り、一台のタクシーを止めた。
そして車に乗り込むと――、私は自分の中にあるすさまじい悲しみを抱えたまま、黙っていることができない。
私の胸の中に悲しみが満杯になって、黙っていると頭がおかしくなりそうだった。

12月31日、明日は新年。窓の外を師走の街が通り過ぎる。

「久美が死んだ」
「久美が死んだ」


「運転手さん、今日、私の娘が死んだんです」
運転している後ろ姿に、小さく話かけた。

「はぁ?」 運転手は振り向いて、ちらりと私の顔を見た。中年の50代ぐらいの運転手だった。
「さっき、東大の集中治療室で、娘が死んだんです」 また私は、静かにそう話した。

「あぁ…、そうですかぁ」 彼は深いため息とともにそう言った。
「それは、大変でしたねぇ」と、私に同情の色を見せた。

「えぇ、そうなんです。大切な私の一人娘でした」。私の声は半分泣き声に変わっていた。
「はぁ…そうですかぁ」 気の毒そうに彼は言った。

「娘は24歳でした」
「そうですかぁ」
何かを話していないと、気がおかしくなりそうだった。

「何かのご病気で?」と彼は聞いた。
「いいえ、自殺です」
「自殺っぅ!」 彼の驚いた声が響いた。
「自殺です…」
「それはそれは大変でしたねぇ」 本当に気の毒そうに彼は言った。
「えぇ、お風呂場に内側からガムテープを張って、練炭自殺でした」

そうだ…考えてみれば…、夜中に練炭など手に入らない。娘は前から練炭を用意していたことになる…

「はぁ…」 彼はもう何も言えないようだった。
私はなぜかこのとき、いつもと違って妙に饒舌だった。

「ほかにお子さんはいらっしゃるですか?」と彼は聞いた。
「いいえ、久美子だけです。あの子だけが私のたった一人の我が子でした。私はいま一人で暮らしています。もうあの子に会えないんです」

どこか私の中の一部が麻痺していた。いつもの私ではなかった。
黙っているのが耐えられなかった。

「あの子が高校を卒業して家を離れ、と言っても電車で30分くらいのところに娘は住んでいましたから、会いたいときはいつでも会うことはできました。でも…もうそれができないんです。娘に会うことができないんです」――

私はタクシーの中で、久美子のことを延々としゃべり続けていた。
私は確かに、あのとき普通ではなかった。

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<第1章 娘の自死を乗り越えて>

[1-6] 鬱のはざま

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葬儀が執り行われている――

これは久美子のお葬式なのか、それとも私は何かいま、悪い夢でも見ているのだろうか…
祭壇の花で飾られた娘の写真を、疲れきって麻痺した頭でボーッと見つめながら、私は思った。


久美が笑ってどこからか現れるような気がした。
「ママ冗談だってば!」 そう言って彼女が、今にも私の肩をたたいてくれそうな気がした。

でも、娘は火葬場に運ばれ、焼かれ、白い骨になって私の前に出てきた。

手袋をはめながら火葬場の係りの男性が言った。「真っ白な、どこにも染みのない、きれいなお骨です」

24歳の若い娘の体は、どこにも異常はない。
ただ、心が病んでいた――


娘の突然の自殺は、私を鬱状態にした。
外に出るのが怖かった。
スーパーに買い物に行くのが怖かった。

マーケットに買い物に行っても、彼女の好きなものを見ると、胸が張り裂けるほどの思いが湧き上がってくる。
ゼリー、明太子、アイスクリーム、焼き鳥、唐揚げ… そんなものが私をひどく苦しめる。

娘と同じ年頃の娘さんを目にすると、胸が張り裂けるようになった。
娘の大好きな食べ物を見るだけで涙が止まらなくなった。


ものを送るために取っておいたダンボール箱がを見ても、打ちのめされる思いがした。
久美にお茶や洗剤などを送るときに使えるよう、捨てずに部屋に置いておいたいくつかの段ボール箱。
この箱はもう必要ないのだと思うと、とめどもなく涙があふれた。

何を見ても、娘を思い出し涙がにじんだ。
「後追い自殺」という言葉が頭をよぎった。
そうせずにはいられなかった親族の気持ちが、私には痛いほどよく理解できた。


久美が死んでしまった。
私はこの現実をなかなか受け入れることができず、苦しさと悲しみのあまり、夜中に本当に発狂しそうになった。
私は家の中に引きこもった。

家でも何も手に付かず、心にわくのは自滅的な後悔の念ばかりだ。
あのときああすればよかった、こうすれば彼女は命を絶たなかったかもしれないと、自分自身をどこまでも非難して責め続けた。
もともとやせている私の体重が、さらに5キロ減った。


何をしても、どうやっても、「どうしようもないこと」が世の中にはある。

受け入れたくない現実であっても、「受け入れなくてはならないこと」が世の中にはある。

逆立ちしても、泣きわめいても、それでも現実として受け入れなくてはならないことが、この世にはあるのだ。


娘の死から1カ月間は、私の人生で一番のつらい時期だった。

娘と過ごした数々の出来事が頭をよぎった。
歩きはじめた幼児のころの、可愛らしかった久美――

私が風邪で寝込んでいたとき、幼稚園児の久美は、自分のおこづかいで私の好きなあんパンを買ってきてくれた。
「ママこれ食べて早く元気になって」
新聞紙で不器用にラッピングまでしてあった。
娘の優しさがうれしくて、私はそのあんパンがもったいなくて食べることができなかった。

そして今となっては、登校拒否をして家の中で暴れていた久美もなつかしかった。


「そういえば…」
私は、彼女の本の読者のことを思い出した。
「あの読者たちは、久美の自殺を知ったらいったいどう思うのだろう?」と、ぼんやり考えた。

久美は、登校拒否をしていた中学2年のときに、『私、戦う中学生』という本を出版している。

その本はひょんなことから世に出ることになった。
ある日私は、銀座で開かれていた友人の個展で、ひさしぶりにある知人に会った――

久美子は帰国子女だった。
私たち元夫婦は、離婚する以前、4年ほどアメリカで暮らしたことがあった。
娘が日本に帰国したときには、彼女は小学校5年生になっていた。
すっかりアメリカン・スピリットを身に着け、久美子は日本に帰ってきた。

しばらくして彼女の登校拒否が始まる。
私は毎日そのことで悩み続けていた。
娘は日本の学校のおかしさをよく私に愚痴っていた。
日本の学校しか知らない同じ年ごろの子どもにはない、面白い発想をしていた。
そんなことを、ひさしぶりに会った知人の彼に、立ち話で手短に話した。

そのころの私の頭の中は、久美子の悩みでいっぱいだった。
ついつい、ひさしぶりに出会った知り合いにまで、子どものことをぼやいてしまったわけだ。
久美が日々私に投げかける、日本のおかしなところや問題点などを…


すると話は、ここから思わぬ方向に進展していったのだ。

「あなたのお嬢さんは面白い! 彼女の体験談を本にすればいいよ」
「はぁ~本ですかぁ?」
彼の突飛な提案にあ然とした。
「まさかぁ、あの久美子が本を出すなんて考えられない」 私はそう思った。

彼は強調しながら続けた。「そうだよ、子どもの立場からの発言が大切なんだ。今は大人たちの視点ではなく、子どもの立場から世の中を見た本が必要なんだ。そういう本なんて、ないじゃないですか。ぜひお嬢さんに本を書いてもらいたいなぁ。あぁ、ちょうどいい。よく知っている出版社の人が今この会場に来ているから、ぜひご紹介しますよ」――

そこから娘の出版に向けて、話が進んでいったのだ。


でも私は、もう何年も登校拒否を続けている久美子が、そんな提案を受けないだろうと思っていた。
ところが、映画に誘っても、買い物に誘っても、何をしても興味を示さなかった久美子が、私にハッキリと積極的な意思表示をしたのだ。
「クミ、本出したい! 絶対クミ、本書く!」

内心、大変なことになってしまったと私は不安になった。
中学2年生の久美子が、ひとりで一冊の本を書けるはずがない。それだけの日本語の文章力が娘にあるはずもないことは、母親の私が十分に承知している。

私自身が相当なサポートしなくてはならないだろうことは、目に見えて分かっていた。
でも、久美子が初めて本気で本を書きたいと言った前向きな気持ちを、私は大切にしたかった。
そして私は、出版に関して、久美子を全面的に支えるよう力を尽くした。


そうして出版された本は、週刊誌などにも取り上げられ、“中学2年生が書いた本”として当時ずいぶん評判になった。
初版はすぐに売り切れ、まもなく再販本も出版された。

段ボール箱がいっぱいになるほどの久美へのファンレターが、出版社あてに届いた。
同じ中学からのものがほとんどだった。

「私の思いを代弁してくれてありがとう」という内容が多かった。
中には「この本は私のバイブルです」という手紙もいくつもあった――


あの手紙を書いてくれた当時の子どもたちが、今この現実を知ったらどう感じるだろうか?
自殺は、あの読者たちをも裏切ってしまったことになるのではないのか?

私は、あのとき手紙をくれた子どもたちに謝りたい気持ちでいっぱいになった。
久美子の母親として、久美の本の出版にかかわった者として、本の読者に謝罪したかった。

そんなことを考えて、私の心はますます追い詰められていった。

→次の記事「[1-7]読者からのメール」へ続く

<第1章 娘の自死を乗り越えて>

[1-7] 読者からのメール

前の記事「[1-6]鬱のはざま」から続く→

ある日、私はふと、自分のメールマガジンをしばらくのあいだ書いていなかったことに気が付いた。

2003年から週1回発行している、私のメルマガ、「大きなわたしと小さな私」――
それを、久美の死の混乱ですっかり書くのを忘れていた。


でも、パソコンの前に座る気力が全くわいてこない。
何もする気になれない。
だけどこのままだと、読者の人たちに迷惑をかけてしまう…

私は重たい体を引きずるようにして、どうにかパソコンの前に座った。

突然の娘の自死で彼女が他界したこと、当分文章が書ける精神状態ではないので、このメルマガをしばらくお休みすることを、たった2、3行の文で伝え、パソコンを閉じた。

それだけ書き上げるだけで、本当に精一杯だった…


そしてそのメルマガが発行された後、しばらくたってパソコンを開けたときに私は驚いた。
画面いっぱいにずらりと、たくさんの読者の方からのお悔みと慰めの言葉が並んでいたのだ。
海外からも励ましのメールが届いていた。

予想もしなかった、読者からの数々のメール。
それまでも、ときどき読者からの感想は送られてきた。
でも、一度にこれほどたくさんのメールをいただくなんて、私はその数の多さが信じられなかった。

まだ一度も会ったことのない人たちが、こんなにも多く、私のことを心配してくれている。
読者の人たちからの温かい励ましの言葉が、こんなに届いている――

「数あるメルマガの中で、滝本さんのメルマガだけはいつも最後まで読んでいます。しっかり休んで気力を取り戻し、書きたくなったらまた復活してください」

「私たち読者は皆、洋子さんが元気になるのをいつまでも待っています」
「洋子さんのメルマガにいつも励まされています。元気になるのを待っています」

「私たちは何にもしないで、一方的に滝本さんから与えられてばかりいます。しっかり休んでください。いつまでも再開をまっています」
「あせらず心ゆくまで、ゆっくりと休養してください。いつもいつも応援しています」

「海外からいつもこのメルマガを楽しみにしています。早く元気になって、またいつもの洋子さんに戻れることをお祈りしています」…エトセトラ、エトセトラ


みんなの気持ちがありがたくって、うれしくて、涙があふれてメールの文字がかすんで読めない。

私はひとりではなく、ちゃんと認めてくれている数多くの読者がいることに気がついた。
そのメールによって、世の中が私のことを認めて受け入れてくれているのだと思えた。

この思いが、私を悲しみの中から立ち上がらせる“最初の力”になった。

まだ一度も会ったことのない読者の優しさが、心から有り難かった。
それは、誰のどんな手助けよりも、そのときの私にとって、大きな支えになった。

→次の記事「[1-8]光の球」へ続く

<第1章 娘の自死を乗り越えて>

[1-8] 光の球

前の記事「[1-7]読者からのメール」から続く→

娘の死から1カ月が過ぎるころ、私はいくつかの「自死の会」に参加するようになった。
友人の強い勧めで、同じ境遇の人と話をすることは少しは気が楽になると言われた。

初めて参加した「自死の会」、そこで私と同じような体験をされた人たちに多く出会った。

そうした会で、私がいちばん痛切に感じたことは――
愛する人を亡くされて、もう6、7年、あるいは10年以上もの時が経過していても、家族の死から立ち上がれずに、愛する人が亡くなったことを昨日のことのように悔やみ、嘆き、悲しみ、その傷を引きずっている人が、あまりにも多いという現実だ。


この現実は非常にショックだった。
10年、20年、いや、自分自身が死ぬまで一生悲しみを背負って生きている人たちがいる。

私はどうだろうかと、自分に問いかけた。
確かに、この現実はあまりにも過酷で悲しい。
自ずと癒えていくものではない。
でも…

私は嫌だ。
10年、20年、ましてや自分が死ぬまで悲しみを抱き続け、一生悲しみの中を生きていくなんて、私は嫌だと思った。
絶対に嫌だと思った。


久美の死後1週間ほどして、私は夢を見た。
娘が夢に現れたのだ!

それはとても鮮明で、現実味を帯びていた。
夢とは思えない、とてもリアルで不思議な感覚だった――

自宅の寝室で寝ていた私が、明け方にふと上のほうを見上げてみると、天からのまばゆい光が、静かにこちらへと近づいて来るのに気づいた。

それはとても美しい、神々しく輝く“光の球”だった。

その光の球が、なぜか私には“娘”だと分かるのだ。
どうして分かるのか、その理由までは不明だが、確かに久美子だと分かるのだ。


夢の中の私は、ある目的地まで行こうとしている。
それは100メートルほど先で、さほど遠くではないのだが、私は懸命に飛びながらそこまで進んでいこうとしている。

そのとき私は空中を飛んでいた。
地上2、3メートルのところを飛びながら、私は目的地に向かっている。
その光の球は、私の横にぴたりと寄り添い、ついて来る。

その光は、しきりに私にこう言っている。
「がんばれママ、大丈夫だよママ、私がついてるよ」
私は光の球に励まされながら、宙を飛んでいた。

私が飛ぶのに疲れて力が弱くなり、1メートルほどグーンと低くなりかけると、
「大丈夫だよ、大丈夫だよ、何の心配もいらないから大丈夫だよ」と、また光の球は私を励ましてくれる。

その言葉を聞いて私は元気になり、また元のところまで上昇できる。
そして目的地にたどり着くという、不思議夢だった。


それは、温かく心安らぐ夢だったのだ。
いや、夢ではない。これは夢ではなく、娘からのメッセージだと思うことにした。
久美は私を応援してくれているのだ。
見えないけど私に寄り添い見守っていてくれているのだと思った。

そのとき私は半分寝ていて、半分は目覚めていた。
完全に熟睡していたわけではなく、私の意識の一部はちゃんと起きていた。
自分がいま寝室の布団の中に横になっていて、外はもう夜明けが近いことも理解していた。

そして、飛んでいる光の球も同時に見ていた。
そのとき私は、夢と現実の境目にいた。


私は、彼女の魂までもが死んでしまったのではないということは理解していた。

人の魂は死ぬことはない。

肉体は焼かれて白い骨になっても、彼女の本体、本質、魂は永遠に生き続ける。
本気でそう信じている。
魂の永遠を書いた「大人の童話の本」なども、私は出版している。

だけど、つらく悲しかった。

久美の顔を見ることができないこと、久美の声が聞けないこと、久美の体を抱きしめられないこと、彼女が将来結婚して家庭を持って子どもを産んで、そんな未来をもう決して見ることができないことも悲しかった。

私は闇の中で悔やんで、悔やんで、泣いて、泣いて、泣きながら時を過ごした。


悲しくて、悲しくて、久美を恋しく思った。
久美子がこんなにまで恋しいなんて…
恋しくて、恋しくて叫びたいほど、死んだ我が子が恋しかった。

いなくなった娘が、どれほど愛しいものなのか――
それは、自分の存在すべてをかけても、魂のすべてをかけも、感じ尽くせないほどの愛おしさだった。
この世にこれほど強く惹かれる愛しい存在など、ほかにいるだろうか。
私の人生の中で、これからこれほど恋しく思う存在などいるだろうか。


娘への愛が胸の中からふつふつとこみ上げて止まらない。
愛しい、愛しい、愛しい、娘が今では信じがたいほど愛しい。
そのこみ上げる愛しさが、私を苦しめた。
いなくなって初めて、彼女の存在の大きさに改めて驚いた。

どれほど彼女が私にとってかけがえのない大きな存在であったかを、思い出させた。
ひとりの人間の存在の大きさと尊さを思った。
命の重さを感じた。

いやと言うほど娘を恋しく思い、毎日毎日泣いて暮らした。

→次の記事「[1-9]久美子の自死をのり越えて」へ続く
 

<第1章 娘の自死を乗り越えて>

[1-9] 久美子の自死を乗り越えて

前の記事「[1-8]光の球」から続く→

ある日私は、鏡に映った自分の顔を見て驚いた――

いつの間にかすっかりやせこけ、老け込み、白髪が目立ち、別人のようになった私の姿がそこにあった…
目の下のくまが、よけい私を醜くしている。

そういえば、久美が亡くなってから私は、一度も化粧をしていないことに気がついた。
着るものにも無頓着になっていた。


生気のない顔、醜く老け込んでしまった自分…
私はその鏡に映った自分の姿を見て愕然とした。

これは私じゃない。こんな私は嫌だ。
こんなに老け込んで醜くなってしまった私なんて、私じゃない。
このまま悲しみ続け、どんどん老け込み、年老いて、そして久美の死のことだけを思って死んでいくなんてまっぴらだ…


「嫌だ!こんな自分じゃ」
きっと娘は、自分の死によってショックを受けた母親の姿、泣き明かして後悔ばかりしながら暮らしている私の姿など、見たくないはずだ。

娘は、いつも私が元気で幸せに暮らしていることを願っているはずだ。

あの夢の中に出てきた久美の“光の球”… あの球はいつも私のそばに寄り添い、私を励まし続けてくれていたではないか。

「泣いてばかりいてはいけない。泣いてばかりいては、久美が悲しむ」…

私の胸の中からこんな思いが、そのとき初めて込み上げてきた。


頭では、いつまでもこのまま久美を恋しがり、悲しみに暮れていたいという思いもあった――

でも、私の胸の中からは、立ち上がろうとするかすかな思いがにじんできた。

そして私は思った。
“自分の力”で立ち上がるしかないのだ。この悲しみからは、誰も救い出してはくれない。

いくら待っても、誰もこの苦しみから私を救うことはできない。いや救い出せない。
人には私のこの悲しみを救うことはできない。

私が自分の力で立ち上がるしか、それしかこの“悲しみの闇”から抜け出す方法は、ほかにはないのだ。


1カ月近く泣き明かした私は、やっと鏡の前でそのことに気づいた。
自分で自分を救うしか、この苦しみから抜け出せない。

どんなに辛くても、どんなに悲しくても、それでも自分に鞭打ってでも、自力で立ち上がるしかないのだ。
ヨロヨロしながらでも、泣きながらでも、先に勝手に逝ってしまった子どもをののしりながらでも、それでもこの悲しみを自力で立ち上がり、そして前を向いて歩いて行くしか方法はないのだ。それしかないのだ…

たとえどんな人でも、アメリカの大統領であろうと、アラブの大富豪であろうと、ハリウッドの映画スターであろうと、億万長者であろうと、普通のサラリーマンであろうと、自分の中の闇と悲しみは自分以外の者には取り除くことはできない。
自分しか自分は救えないのだ…

私は、10年も20年もこうして泣き明かして暮らすことを決して望んではいない。
娘もそれは望んでいないはずだ。

そうだ私は…今までも、何度も何度もつらいことがたくさんあった。それでも、いつも自分の力で立ち上がり今日まで生きてきたではないか。


無駄にしたくない。この体験と娘の死を無駄にしたくない…
このまま私がここから何も学ばなければ、泣いてばかりいては、久美が悲しむ。

今はその理由ははっきりとは分からないけど…きっとこの体験にも、何かの“意味”があるはず。
娘の死から学ぶ“大切な何か”があるはずだ。でなければ、この現実が無駄になってしまう。

きっと、この体験から何かを学び、そこからひとまわり大きくなった私にならなければ、そんな自分にならなくては、久美の死が無駄になってしまう。

絶対、無駄にしてはいけない!
無駄にしない。
私は無駄にしない!――

私の胸の奥から、そんな感覚がわき上がってきた。
私はもう泣くのをやめた。

→次の記事・第2章「[2-1]母の7歳年下の恋人」へ続く

<第2章 私の軌跡・前(少女期~芸能界)>

[2-1] 母の7歳年下の恋人

前の記事 第1章「[1-9]久美子の自死をのり越えて」から続く→

私は小さい頃から、自己評価が極端に低かった。

内側には、たくさんのコンプレックスや、劣等感や、凍りつくほどの寂しさや、被害者意識、自分のことを愛してくれない身勝手な親に対する怨みや怒りで満ちあふれていた。

“怒り”の感情には強いパワーがある。
反対に、“絶望”はそこから前に一歩も進めなくなる。
十代のころの私は、無意識のうちに、“怒り”を自ら選択していた。
その怒りを、前に進むための唯一の原動力として生きていた。

怒りが、そのころの私の、生きる大きなエネルギーだった…


私の父は、東京・蒲田で鉄鋼所を経営していた。
羽振りの良いころは、従業員40名ほど抱えていただろうか。
でも父はいつも愛人のところにいて、家にはほとんどいなかった。

そしてそれは、ある日突然始まったのだ――
私が高校1年生のときだ。

いつものように学校から家に帰ると、家の中には誰もいなかった。
私の目に、そのとき飛び込んできたのは――、家中の家具という家具に、なぜか赤い紙がベタベタと貼り付けられた、異様な光景だ。
私の机に、タンスに、オルガンに、ステレオに、台所の冷蔵庫にも食器棚にもすべての家具に、朝出かけるときにはなかった赤い紙が貼られていた。

夕日が差す薄暗い部屋の中で立ちつくし、私の心は言い知れぬ不安に駆り立てられた。
もしかしたら、この瞬間から私の人生が変わってしまうのかもしれない… なぜかふと、そんな恐怖がわき上がった。


父の経営する会社は倒産した。
そして父は借金だけを残し、家族を残し、どこかに蒸発していなくなってしまった…

自分だけ雲隠れをしてしまったのだ。
母と私と二人の弟が、債権者の取り立ての抗議の中に置き去りにされた。
毎日何人もの人たちが入れ代わり立ち代わり、血眼になって家に押しかけた。
「社長を出せぇ!」 大人たちが口々に叫びながら母に詰め寄った。


まもなく母は、年下の男性を家に入れた。
私たちは、債権者たちに追われるように、住み慣れた東京の家を後にした。
そして、母と、母の恋人と、私と、二人の弟との、奇妙な生活が横浜の狭い古びた家でスタートした。

家は、6畳と4畳半と小さな台所しかなかった。
今までの生活と、何もかもが大きく違った…
私の部屋はない、弟たちの部屋もない、古くて今にも倒れそうなみすぼらしい小さな家だった。

母の愛は、すべてその男性に向けられていた。
今の私の年齢になれば、当時の母の気持ちは理解できる。  
でも、男女の愛など全く経験のない中学から女子校に通う15歳の私には、ふすま一枚隔てた隣の部屋での母とその年下の男性との夜の生活の、母のあの声を聞くのが何よりも嫌だった。
私は布団の中に潜り、両手で耳をふさいで寝た。

隣で寝ている弟たちのことが気になる。下の弟は中学生。その下は小学5年だった。
もう二人とも寝ているのだろうか? 寝ていてくれることをいつも祈った。


つらかったのは、突然現れた母の恋人――「おじさん」と呼ぶその人は、私たち姉弟のことを、いつも疎ましく思っていたことだ。
私たちが彼らにとって“じゃまな存在”だということは、子ども心にも感じる。

母は常に、おじさんの機嫌ばかりを気にして、おじさんのことを最優先にした。
母親であることより女として生きる母を、私は心から憎悪した。


いつの間にか、それまですごく活動的だった弟たちも、母やその男性に遠慮して、別人のように家の中で萎縮して暮らすようになっていた…

横浜の商事会社に勤めていたおじさんが会社から帰って来ると、弟たちの顔色が変わる。
おじさんは、弟たちが見ているテレビアニメを「ケッ、くだらない!」と吐き捨てるように言い放つと、チャンネルをカチャカチャと自分の見たい野球中継に替えてしまう。

弟たちも私も何も言えない…
心の中に、大人たちへの憎悪が、日々たまっていった。

→次の記事「[2-2]フォークギターと私」へ続く

滝本さん プロフィール

滝本洋子

Photo: 2018年10月「グッドストック東京ライブ」より
 
―1970年代初め、フォーク歌手・中村洋子として活動。

 東京生まれ。渋谷のライブハウス ジァン・ジァンや各地のコンサートなどでライブ活動をする。ミッキーカーチス作詞作曲「風船」(クラウンパナムレコード)でメジャーデビュー。荒木一郎作詞作曲「あなたのいない夜」(CBSソニーレコード)その他などでもレコードを発売。
 TBSテレビドラマ「赤い靴」主題歌(岩谷時子作詞、三沢郷作曲)、TBSテレビワイドショー「3時にあいましょう」エンデングテーマソング「午後のささやき」(阿久悠作詞、戸倉俊一作曲)なども歌う。
 ギンザナイトナイトなどのテレビ番組に多数出演。坂本九が歌う「独り暮らし」(東芝レコード)の作詞なども手がける。

 著書に『きんたろうあめ』(三五館)、『あなたのまんまで素敵』(宙出版)、大人の童話『ジュンと帽子とぬいぐるみ』(ゴマブックス)など。

 近年は、魂の声を墨文字で描く我流の書「我書アート」を考案し、ワークショップショップを各地で主催。多くの人々の気付きのサポートを行っている。墨で描くオリジナルのコンシャスアートを個展や雑誌などで発表。

 メールマガジン「あなたのまんまで素敵」を配信中。



滝本洋子ホームページ(自分を愛するお手伝いサイト)
我書アートホームページ (滝本洋子創設ワークショップサイト)
Yoko Takimoto Conscious Art(英語版動画)
前向きに生きる会ホームページ(自死遺族のためのサイト)


※滝本久美子著書「私、たたかう中学生」(ロングセラー出版、1996年発売)重版される。
 アメリカからの帰国子女である著者は、登校拒否を続けながら日本の学校教育の理不尽さとおかしさを中学生の視点から綴り、当時14歳の書いた本としてマスコミなどで話題になる。
 朝日新聞中学生ウイークリーに1年間滝本久美子のエッセイ掲載。アメリカ・カリフォルニア日本語放送テレビ番組でも、2日間にわたり紹介された。

もくじ

●このブログは、本のように物語を「上から下の順」に読み進められるように、各記事を並べています(新しい記事が上に来る通常のブログとは逆の順になります)

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